●島崎藤村と湯河原
島崎藤村(1872年〜1943年)は、詩・随筆・小説と幅広い文学活動を通じて、日本の近代文学史上に不朽の業績を残しています。
昭和の初めごろ、長編小説の『夜明け前』に執筆にとりかかろうとして、いかに健康を保持するかが関心事となり、妻静子の父(医者)に相談し、湯河原温泉を静養先として勧められました。
妻の回想によれば、「当初、湯河原温泉の宿を1、2回替わったが、先生は伊藤屋の1番の部屋を気に入り、私たちにとって終生忘れえぬ部屋となった」と記されています。
●島崎藤村宿泊当時の宿帳と逗留時の献立
藤村は、1928年(昭和3)から十余年の間、年4回の出版社への原稿提出後、約1週間、温泉保養をかねて伊藤屋で心ゆくまで寛いだといわれています。
当時の、宿帳と献立は、弊館ロビーに展示され公開されています。
●島崎藤村の書(一茶と旧詩潮音)
弊館には、藤村が投宿中にしたためた墨書が2種あり、現在、表装され、掛け軸として大切に保存されています。
一本は「一茶の言葉をしるして伊藤屋主人におくる」と添え書きして、「はつ袷は着心のよきものなるに、蛇殿の古き地うち捨てて新しきに着替えたる、蛙が水にも陸にも一張羅なるに比べて、とかく奢りの沙汰なり」もう1本の軸は、若菜集で、「伊藤氏方にありて旧詩潮音一章をしるす」とあります。
「わきてながるるやしほじの そこにいざよふ うみの琴 しらべも深しものかはの よろづのなみを よびあつめ ときみちくればうららかに とほくきこゆる はるのしほのね」
藤村夫妻の湯河原温泉での暮らしぶりは、どのようなものであったでしょうか。
1938年(昭和13)の書簡によれば、「毎日の日課として、午前は読書、これでは勉強に来てゐるのか分からぬほど。午後三時より散歩」静子は滞在をずらして、一日ぐらい泊まっては夫のじゃまにならぬよう気を遣っていたようです。
「わたし達はいつでも湯河原駅につくと、なぜか一切のものからの開放を感じた」と書く静子の言葉は、藤村の持つ島崎家の暗い幻影や心の影から遠ざかり忘れさせる時をもちえたことを安堵の気もちで表しているとといえます。

△「潮騒」の歌碑 |
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△宿泊時の会計簿 |
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△「一番」のお部屋 |
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△島崎静子著「ひとすじのみち」 |
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